第82試合:憂鬱な気分と詩人病

みなさんはどうか知りませんが、僕はメランコリーな気分になると詩人病なる病気にかかります。胸の内に言葉が沸き立ち、メランコリーな気分を言葉で表出しようとするわけです。それが『詩』になるんですが、まあ、僕には詩人の才がない。メランコリーな気分が収まった後に詩を読み返すと赤面しちゃいますね。酷い!

メランコリーは人を詩人にするのですが、詩人の才がない僕ですら詩人にするメランコリーはなんとも残酷な病です(スマパンのアルバムに『メランコリー、そして果てしのない悲しみ』って二枚組のアルバムがありましたな)

僕も度々メランコリーによる詩人病に罹患するんですが、それはお酒で酔っぱらった状態に近い気がします(僕は下戸なんですけども)。メランコリーになると人間は言葉に酔うんでしょうね。まあ、詩ってのは酔っぱらいの醜態みたいなモンで、素面に戻って激しく後悔するのは当然といえば当然でしょう。

『健全な魂は健全な肉体に宿る』という言葉があります。まあ、意味うんぬんは様々な解釈がありますが、まあ、肉体の状態が自らの精神に大きな影響を与えるのは事実でしょうし、逆もあり得るでしょう。僕もメランコリーな気分になると身体が動かなくなりますから。

以前なんかの本で読んだことがあるのですが、肉体と分離した精神を発見したのはキリスト教だそうです。面従腹背じゃないですが、キリスト教は信仰の証明に振る舞いを要求しないそうです。他の宗教だとああだこうだしなさいと振る舞いを要求するそうですが、キリスト教はそういうのがないそうです(この辺りは色々とツッコめるとこありそうですけども)

これは医者から聞いたことですが、精神病か否かのひとつの基準としてその人が社会生活を営めているか?があるそうです。メランコリーも行き過ぎると身体が動かず、まともに外に出られませんからね。そうなると、メランコリーも精神病にカテゴライズされるわけです。肉体的な変化に伴う精神的不調も『社会生活が営めるか?』によって精神病にもなるしならないコトもあるそうです。

仏教唯識派だと、世界も自己も認識の表象なのだそうです。実体なるモノは存在せず、『識』だけがあり、識をする自己があるだけだそうです。自己は識をする総体みたいな認識でいいのかな?その辺よくわからないですね、僕みたいな浅学には仏教唯識派なんてとても理解できませんが、なんとなく仏教唯識派は日本人と凄い相性がいいと思います。三島由紀夫なんかも最終的に唯識派にいっちゃいましたからね。ただですね、肉体的な影響によって『識』が歪むコトもあるんじゃないか?とも思うんですがね。まあ、正しい『識』とはなにかと言われるとわからないんで、その辺りはわからないんですけども。

 

僕の浅学からしてよくわからないんですが、肉体と別個の意味での精神なるモノってあるんですかね?深く聞いたことはないんですが、大半の人間が肉体と離れた魂なるモノがあるって思ってるし、死が怖い理由として自分の意識が消え去ることへの恐れがあるんだそうです。僕もなんかわかる気はしますが、肉体と離れた魂とか意識なんてあるんですかね?僕は見たことがない(笑)

神の実在を信じる信仰心ってのがあります。信仰ってのは『なぜ?』の最終到達地点みたいなモンです。なぜ世界は存在するのか?なぜ私は不幸なのか?理由は神の御業だからでしょう。

デカルトじゃないですか、『我思う、故に我あり』と思う我あり……『『我思う、故に我あり』と思う我あり』と思う我あり……『『『我思う、故に我あり』と思う我あり』と思う我あり』と思う我あり……って位に延々と終わりがない。『なぜ?』も同じ構造で『なぜ?』が終わりなく続く。この永続的な『なぜ?』にケリを付けるのが信仰だと思います。疑わないコト疑いをもたないコトが信仰ですから。

ともかく色々書いてきたんですが、肉体と離れた精神、肉体と別個としての精神の実在ってあるの?に対する答えはなんかわからないですね。別に唯物論なんか信じる気もないし、人間が電気で動くたんぱく質の塊だと思っていないし、精神が脳の電気信号の結果とも思わないんですが。

 

じゃあなにが言いたいかと言うと、人を詩人にする病にはメランコリー以外にもあります。それは『恋愛』!!

恋愛も人を詩人にします。残念ながら、僕は恋愛という名の病に罹患したことがない!

 

僕は恋愛で詩人になりたいんですが……残念ながら経験がないんですよ……