第92試合:愛について考える

一時期、童貞をこじらせ過ぎて色々と愛について考えたことがあるんです。でね、久しぶりにその時期のコトを思い出してこの記事を書いてるんです。なんでこの記事は読まなくてイイと思いますよ、書いてることが多分意味不明だと思うから……。

 

恥ずべき者を恥ずべきままに愛せるか?

 

以前、ばあちゃんとか母さんによく言われたんですよ。血の繋がった孫だから、とか、血の繋がった我が子だから、とかね。

この言葉に悪意なんて全くないのよ。むしろ善意、愛の告白って言っていいと思う。でもね、僕は『血の繋がった』ってトコがなんか凄く怖かったんだよね。

コレって愛する理由に条件があるってことでしょう。血が繋がってるから愛してるって意味だから。逆に考えりゃ、血が繋がってなかったら愛されてないのよ、当然だけども、それは。

愛するには理由があるのよ。頭がイイからとか性格が合うからとか、とにかく理由があるのね。全部条件付きの愛なんだよ。

まあ、なんとなく好きとかあるんだろうけど、恋愛にしろ結婚にしろ、理由もなくとかなんとなくってのが多いってのも知ってるんだけど、それって理由もなく別れる、とか、なんとなく離婚するとかと繋がってる気もしてね。不意に冷める愛なんてよく聞く話だし……。

 

愛する理由をすべて引き剝がした上にある生々しさを愛せるのか?って疑問があるのよ。実際の話、無条件に愛するなんて神にしかできないんだよなあって思うんだだけど、それも実は違ったりするし……。

 

恋闕っていう右翼用語があって、これは宮城に思慕する、言ってしまえば天皇への至誠って意味かな。結構、政治的に使われてる言葉だったりします。陛下を陛下であるがゆえにただすらに至誠を貫くってコトらしいです(詳しくはわからないけども)

ただひたすらに相手にに思いを寄せる、相手の都合はお構いなし。たとえ裏切られようとも、成就しなくても、ただひたすらに思いを寄せる。相手にしてみりゃタマラナク迷惑なことでしょう。コッチに愛する理由があっても、相手になければ、成立しないのよ、愛なんて。

理由付きの、括弧の付いた愛する営みのなかで、その理由と括弧が取り除かれると愛する営みが終わる。理由と括弧が外された上にある生々しさすら愛するなんてできるんだろうか?

愛するとはなにか?っていう、定義が釈然としない中でこんなコト書いても曖昧なままに終わっちゃうのもわかるんだよね。

僕なんかは愛するという営みから外れちゃってる時期が長かったから、なんとなく神に縋りつきたい気持ちもわかるんだよね。

 

ただ信じさせすれば、愛されるってのは凄く便利な言葉だよなあって思うのね。条件が簡単だし、共同体からも家族からも外された者にとっちゃとても便利で簡単なんだけどさ。結局、神の愛も信仰するっていう括弧付きってのが辛いよね……。

 

人間はほんと救われないよなあ……。