番外編:日本的右翼、天皇、表現しえない力としての存在

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今回は番外編です。個人的に宗教と政治については極力立ち入らないことを信条としているんですが、ちょっとまあ、特別に書きたいと思います。

特に今回の記事は非常に感覚的というか、わかる人にはそれとなくわかるが、わからない人はまったくわからない内容になっております。なんで、割と時間の無駄になるので読まない方がいいと思います。

 

僕には何度か精神的危機がありまして、最初の危機が19歳の時でした。精神的な危機に陥り、煩悶を繰り返す僕が何度も読み直した本があります。見沢知廉著『天皇ごっこ』という本です。小説としても、まあまあオモシロかったんですが、僕が一番影響受けたのが、文庫本にある宮台真司先生の解説です。

今回の記事はこの宮台真司先生の解説を補助線にしながら、自分なりの考えを述べたいと思います。

 

①日本人は共同体的存在です。それゆえ、所属する共同体の前提と仲間の眼差しによって規範されます。

それゆえ、共同体がなんらかの決定を行うとき、その決定が合理的だとか論理的かが基準ではなく、『みんながどう思っているのか?』に依存しています。たとえ、その決定が合理的かつ論理的であっても、『みんながその決定を合理的で論理的であると思っているから』という理由で決定がなされます。

共同体における正しさは『みんながどう思っているのか?』に依拠しているこになります。そして、日本には無数の共同体があります。それゆえ、無数の前提と無数の正しさが存在します。

では、この数多ある共同体を超えた『正しさ』を共有する術はあるでしょうか?

ヒントは宗教、特にキリスト教を代表とする一神教にあります。一神教における正しい行いと正しい考えはすべてテキストに依拠しています。それゆえ、テキストを信じるか信じないかだけになります。

テキストを信じる信者は自らが所属する共同体の正しさとは別の正しさを共同体に所属しながら持つことができます。もちろん、宗教的共同体というのもありますが、それは今回は言いません。信者は共同体に所属しながら共同体とは別の前提や正しさを持ちえるということが重要です。

 ②日本人は共同体的前提と共同体的正しさに依存します。それゆえ、自らの自尊心の預け先は常に自らが所属する共同体なり、自らが所属するシステムなり、になります。

システムについてはひとつ例を挙げます。

朝日新聞がよく天声人語の文章が受験の問題に取り上げられたと嬉々として記事なり、広告なりに取り上げたりします。

みなさんどうかわかりませんが、現在の受験システムは果たして合理的で子供たちのためになっているでしょうか?議論の余地が多くあると思いますが、完全に賛成の方は少ないと思います。

むしろ朝日新聞が受験システムの精査するべき立場であるのに、嬉々として上記のようなことを言っている。

なぜでしょうか?

単純に天声人語を書いている記者が受験システムの勝者だからでしょう。こういってはなんですが、天声人語が受験問題に取り上げられるのは、その文章が分かりにくく、意味が不明瞭だからです。天声人語を読んで、その文章の意味がすぐに分かれば、受験問題になりませんから。

 このことからわかるように、日本人にとって所属する共同体やシステムが全体にとって不利益なろうとも 有害であろうとも、所属する共同体やシステムを維持しようとします。所属する共同体やシステムを否定するのは自己否定になるからです。そこに全体にとっての利益という視点はありません。

③『みんながどう思っているのか?』について考えます。日本人は『みんながどう思っているのか?』から外れることを恐れます。それは、所属する共同体や所属するシステムからのパージにつながるからです。

それゆえ、共同体の成員は常に疑心暗鬼になります。『みんながどう思っているのか?』を推測し、本音と建前を使い分けながら、常にそれに沿って行動します。そして、だれかが抜け駆けしないか?ひとりだけ不当な利益を受けていないか?を監視しています。

共同体の中では、みんなが前提を共有し考えを共有しています。それゆえ特別は許されません。みんな平等だからではなく、共有しているから特別であってはいけないわけです。

④日本人は共同体的存在ですが、なにもひとつの共同体、ひとつのシステムに所属しているわけではありません。むしろ、無数の共同体やシステムに所属しています。家族、会社、友人、仲間、色々あるでしょう。そして、日本人は共同体的存在であるがゆえ、所属する共同体やシステムが持つ前提と正しさを使い分けするということです。家族なら家族の前提と正しさを、会社なら会社の前提と正しさを使い分けながら日々を暮らしています。

日本人は所属することでしか存在しえません。なにかに所属することで前提と正しさを持ちえないことになります。重要なのは所属です。

しかし、日本人がすべての所属から離れるなんてことはまずありません。家族がいなくても会社に行かなくても、最終的に日本国籍を有している限り日本国国民ではありますから。

 

長々と述べてきましたが、むしろここからが本題です。そして、ここからは感覚です。あくまで感覚の問題です

 

僕が精神的危機に陥った時の話です。僕はすべての所属から引き剥がされたと思いました。すべての所属から切り離された卑小な存在としての自分がいる。無防備な自分、持たざる者としての自分がいる。この世の諸々の法とは無縁なのだと自覚した自分がいる。

このような存在意義を持たない矮小な自分が『世界』と一対一で向き合うときになにを感じるか?

どの言葉も適当ではありません。崇高さ、美、真理、どれも合っているし違います。言葉で表現すれば陳腐化してしまいます。それは人間が『表現しえない力としての存在』というべきかもしれません。もちろん、これも違いますが……。

僕はそんな存在を感じることができました。すべてから外れた人間が感じる巨大な存在、共同体を超え、国家を超え、社会を超え、世界を超えた地点にある『力みたいな存在』を知覚することができました。こればっかりは感覚ですし、人間が表現することはできないです。

 

さて、ここから論が飛躍します。

 

日本的右翼にとってこの『表現しえない力としての存在』が天皇になります。日本のいわゆる右翼は大抵の場合、国家主義者です。国家と国家に所属する自分、日本国という共同体に所属する自分、つまりは自尊心を日本国に預けているわけです。『いわゆる右翼』というのはどこまでも共同体的存在です。

日本的右翼は国家主義者ではなく天皇主義者です。

それは『表現しえない力としての存在』の天皇を知覚し、『表現しえない力としての存在』としての天皇と血肉となることです。卑小な存在、恥ずべき存在としての自己と向き合うことで顕現する『表現しえない力としての存在』としての天皇、その天皇と合一することが日本的右翼です。

なので、日本的右翼はどこまでも『いわゆる右翼』を軽蔑します。彼らは日本的右翼ではなく国家主義者、つまるところ共同体的存在だからです。

 

日本的右翼にとって天皇は『恥ずべき者に恥ずべきままに力を与える存在』です.。そして、『表現しえない力としての存在』の天皇の血肉となることが日本的右翼です。

天皇の血肉となる状態を一般的に『死』といいます。日本的右翼にとって『死』は自らを力とする行いです。すべてを捨て去り、力へと飛翔する行いです。恥ずべき者が『表現しえない力としての存在』の元へと旅立っていくコトです。『死』は日本的右翼のとっていわば自らを力とする営為なのです。

 

 僕がファシストかどうかは別にして、日本的右翼に魅かれたコトは間違いありません。ただ僕は日本的右翼にはなりきれませんでした。僕はどこまでも『生きることは生き残るコト』と考える人間であり続けています。